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報恩講 | 2024年(令和6年)10月20日(日)10:30〜 |
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この度、明泉寺のYoutubeチャンネルを開設いたしました。
当院住職・水谷裕悟の法話などを公開していきます。
現在、秋の彼岸会法要 法話「正信偈 南無阿弥陀仏について」を公開中です。(全4本)
是非ご覧ください。
→ 圓乗山 明泉寺 Youtubeチャンネルはこちら
日付 | 2024年(令和6年)10月20日(日) |
勤行・永代経 | 10:30〜 |
法話 | 11:00〜 照見寺 玉腰暁広師 |
ビンゴ大会 | 11:40〜 全員のかたに景品をお持ち帰りいただきます。 |
各檀徒様には華ろうそくを灯していただきます。
バザー、各種出店もございます。
ぜひお越しください。
毎月第2金曜日 13時30分〜15時
明泉寺2階会館にて皆様との交流の場を設けています。
新年会、日帰り旅行にも出かけます。皆様ぜひご参加下さい。
墓地の分譲をしております。
新墓地、旧墓地ともお分けできます。まだお墓のない方、これからお墓を、とお考えの方がいらっしゃいましたら、街中で交通の便がいい真宗大谷派のお寺が墓地を分譲していると、ひとことお話ください。
明泉寺のパンフレットをご用意しておりますので、お声をかけていただければお渡しします。
皆様のご協力をよろしくお願いいたします。
またタイキプランニング様とも契約し墓地分譲をすることになりました。
皆様には、お詣り時にお邪魔をすることがあるかと思いますが、何卒、御了承いただきます様宜しくお願いいたします。
2018(平成30)年6月の震度6の大阪地震で、大量の墓石が倒れたというニュースがありました。
自坊を点検しましたところ、花立ての石が墓本体と付いていない危ない墓石がありましたので、ゴムで留める作業をしました。数年前の静岡地震(震度5)の際も墓石塔がずれたお墓が多数見受けられた為、当寺より石芳石材様に依頼して補修して頂きました。
墓石が壊れると、ほかの方々にご迷惑がかかる場合があります。
各家のお墓を今一度点検くださいますよう、お願いいたします。
2016(平成28)年10月23日(日)十六代住職継承奉告法要 兼 親鸞聖人七百五十回御遠忌法要を無事に執り行うことができました。また祝賀会にも、皆さまお忙しい折多数のご参加をいただき、誠にありがとうございました。
これからも、皆さまのお力をお借りしながらになるかと存じますが、明泉寺護寺のため、力を注いでいく所存です。今後とも宜しくお願い申し上げます。
2014(平成26)年8月17日(日)静岡市福祉センターにて「平和資料館を作る会」の主催で、「戦争体験を語る会」が開催され、14世住職が体験を講演致しました。
内容は「劫火の中になお生命ありて」の抜粋です。
17日(日)、21日(木)夕刻、テレビ静岡にて放映、19日(火)静岡新聞に記事が載りました。
以下、静岡新聞より引用
「 静岡市の市民グループ『静岡平和資料館をつくる会』(市原寿文会長)は17日、静岡市葵区の市中央福祉センターで『戦争体験を聞くつどい』を開き、同区の水谷光子さんが自身の戦争体験を話した。
同区の明泉寺に生まれた水谷さんは、18歳の時に静岡大空襲を体験した。防空壕(ごう)の中から見た炎に包まれた町の景色や自身で行った家族の葬儀の様子を紹介し、『地下道を歩いたり飛行機の音が聞こえたりすると今でも怖い』などと語った。
市原会長は『戦争を経験した人の貴重な体験談の記録を残し、若い世代に伝えていきたい』と話した。」
→14世住職 光子手記「劫火の中になお生命ありて」をこちらで公開しています。
2016(平成28)年8月4日(木)に大谷の西敬寺様で子供会が、開かれました。30名ほどの子供たちが集まって下さいました。
10:00から勤行があがり後、小鹿公園まで歩き、宝探し(人が手を加えた物)やフィルムケース飛ばしを楽しみました。昼食では、流しそうめんで子供たちは大騒ぎでした。
その後もビデオを鑑賞したり、各自で水でっぽうを作り、皆、元気に水を飛ばしていました。
暑い日でしたので、服がびしょぬれになりましたが楽しい時間でした。2時半ごろ終了しました。毎日、忙しい子供たちですが、長い夏休みの一日 こんな思い出があってもいいなと感じました。
2015(平成27)年8月5日(水)に長沼の真勝寺様をお借りして、子供会が行われました。
この子供会は2年前に行われたものと同じで、子供とお寺の繋がりを考え34組のお坊さんたちが企画したものです。まだまだ暑さが続く時期でしたが、40名ほどの子供たちが集まりありがたく思いました。
10時からお勤めがあがり、明泉寺の若院が導師を勤めさせていただきました。
その後、長沼駅から北に上ったところにある愛宕神社付近のハイキングコースを1時間ほど歩き、お寺に戻ってから昼食をいただきました。昼食は自作の台で流しそうめんを食べましたが、子供たちは自分が食べ切れない量のそうめんを取ってしまっていたのが印象的でした。午後からはビデオを見たり、紙で魚を作り、それを釣り上げるといったことをして、15時に終了しました。大人は子供たちに振り回されてばかりでしたが、子供たちにとって有意義な時間になってくれていれば幸いだと思います。
またいつか、同じような会が開かれると思いますが、その時はお孫さんやお子さんと一緒に参加されてみてはいかがでしょうか。
お彼岸、彼岸の中日、彼岸だんご、暑さ寒さも彼岸まで・・・・・・・と、日頃なれ親しんで用いられている「彼岸」という言葉は、正面からその意味をたずねられると、案外答えられないものです。「彼岸」は彼の岸です。
煩悩でよごれきった此岸(この世)に対して彼の岸は(清らかなお浄土の世界を)指し示す言葉です。お釈迦様の入滅後、その教えを説く人も聞く人も、なくなってしまうという末法思想は、平安時代末期に日本各地に広まり相つぐ戦乱のなかで人々は、極楽浄土に強いあこがれをいだくようになりました。
親鸞聖人が七高僧として仰がれた中のひとり善導大師の『観経疏』に「その日、正東より出でて直に真に没すればなり。阿弥陀の佛圓は日の没するところにありたり」とあるように、お彼岸には 太陽が正東から昇り、正西に沈むことから、西方十万億土にあるという極楽浄土をしのぶという習慣ができました。
お彼岸のお中日と前後の三日づつを含めた七日間はお浄土をしのぶ「仏教週間」としてずっと日本人の生活の中に定着しました。
お彼岸にご先祖のお墓詣りをするならわしは、清らかなお浄土に住生されたご先祖を偲んで行われるようになったのです。真宗は、このようなお彼岸のいわれにちなんで仏のお徳と仏の国をたたえる彼岸会の法要を勧めています。
ご家族そろってぜひお詣りしたいものです。
さる2011(平成23)年4月6日、市民文化会館で、静岡市仏教会主催、青年部・婦人部・信徒会協賛の「花まつり大会」が、開かれた。
第1部は「法要」。中央に花み堂を置き、献灯献花。30人程の僧侶の読経・回向・表白があり、続いて讃佛の音楽の流れる中、僧侶や各代表が潅仏された。
第2部は「挨拶と贈呈式」。南荘宏師指揮のもと、クール・グルヌイエット(可愛いカエルの合唱団の意)の合唱に続いて、新妻会長の挨拶があり、更生保護教会・仏教教誨師会はじめ、心身障害者自立のための9福祉施設の代表に、協賛金が贈呈された。
第3部は、南慧昭師のオンステージ。「仏の心歌に託して」と題して、「歌説法」があった。南師は大分市・勝光寺のご住職、曹洞宗の僧侶です。南こうせつさんのお兄さんです。昭和17年、勝光寺に生まれ、大学卒業後は民間会社に勤め、定年後に駒沢大学夜間部に学び、総持寺に1年半参禅し、さらに曹洞宗の専門道場で2年間修業して、2005(平成17)年、63歳で勝光寺の住職に就任されたという実に異色の経歴を、持たれた方です。学生時代から、男声合唱団で活躍し、横浜で混声合唱団の指揮を18年勤め、「お坊さんシンガーソングライター」として、CDアルバムも出し、作曲など、多彩な音楽活動を続けられた方です。現在は心の健康(座禅と歌)をテーマに、新感覚の説法を展開され、全国を飛び歩いていられます。
最初の曲は、勝光寺の前の清流をテーマの、「大野川賛歌」。これは「青葉城恋唄」をイメージしての作曲との事です。「授かった生命を、手・足・頭を使って大切に生きよう」との願いが込められた故郷賛歌です。
2曲目の「我が家が一番」は大家族時代の懐かしさを、ジャズ風に作曲したとの事。敗戦後、日本は経済大国になったが、昔はどの家庭にも3人〜5人の子供は普通だった。家計もそれほど豊かではなく、母親は忙しかった。子供はよく手伝いもしたし、子供自身の考えで行動した。今教育ママたちは、子供が考える前に、答えを出し、その答えを押し付けているのではないか。世の中は豊かになったのに、政治・経済・教育それぞれに問題を抱えているように思う。
3曲目の「SIXTY〜3回目のハタチ〜」は定年後の男の生き方を、還暦に作曲したとの事。今まで頑張って生きてきたから、ここらで一息入れようか。仕事でもなく、遊びでもなく、世間のお役に立つことを始めようとの呼びかけ。
4曲目の「笑顔をもどして〜地球星のラブソング」は、山を崩し、海を埋め、空を汚し、環境破壊を進めている現状を、星が泣いていると訴えている。今の環境はこのままでよいのか。困っているのは果たして誰か。働きずくめで生きて来た私たち。自分一人では昔に戻れない。世界の友と手をつなぎ、自分勝手な便利さを、少し我慢して、きれいな地球にもどしていこうと、少年達への願いの呼びかけ。
5曲目の「母の思い〜うちの母さん〜」は大分市・市制50周年に公開生放送のために作曲したものとの事。ご自身の今は亡き母上を思い出しての作と思われる。手足を休める暇も惜しみ、冬も裸足で土間での飯炊きに励んでいた姿。曲った事を許さず、激しく躾けながら、常に微笑みを絶やさなかった母。裸足で風呂の水汲みをしていた母。何事にも逃げてはならぬと、尻を叩いて教えてくれた母だった。いつまでも、かの国から見守ってくれていると思う。
今東北の大震災で、災害地は勿論、日本国中が、未曾有の困難に立ち向かっている。災害地では、年配者の知恵と体験が、どんなに役立っている事か。心の問題の解決・家族の絆の大切さが、強く思われていると聞いている。豊かさに慣れて、生活の原典を忘れていないか。モラルの低下が歎かれる昨今だが、震災にあった今こそ、足元を見つめる良い機会と思う。
お釈迦様は、80歳まで人と接して話を聞き、説法をして歩かれた。子育てには、入学前のスキンシップが大切だ。幼時から祖父母を敬うこと、仏壇を拝む事を習慣づけることが大切である。3世代の同居は素晴らしい。人間は一人では生きられない。助け合って生きることこそ大切である・・・と結ばれた。(14世住職記)
当山に伝えられてきた「方便法身のご絵像」につき、最近調査の結果判明した事をご報告致します。2007(平成19)年の年賀状に被露の軸についてです。あのご絵像軸は、12世住職・水谷寿(光子の父)が昭和19年に、麻機の長坂清司氏(常司氏の祖父)にお預けし、戦後バラックを建ててから、私が受けとったものです。父がかなり大切にしていたものとは思いましたが、とにかくぼろぼろの状態でしたので、13世住職・尚道ともども、どうしたらよいか考えあぐねておりました。桜田賢●(レイ・雨かんむりに弓弓弓)師(尚道の兄)はじめ何人かの方にも見て戴いたのですが、皆様「かなり大切な軸とは思うが、とにかく裏書が読めなくて」と言われ、時期を待っておりました。尚道は自身でも、また何人かのカメラマンにもお願いして、赤外線写真で裏書きを撮影したのですが、遂に成果を見られませんでした。
石川鉄士郎・富佐代ご夫妻(貴康氏の父母)のご意見により、糊を落としたさらし布を挟み軽く巻き、桐の箱に収めて大切に保管し、時期を待っておりました。
この度、ご縁あって、同朋大学仏教文化研究所員・碧南市蓮成寺ご住職・青木馨師にご覧戴いた結果、蓮如上人の署名と花押に間違いないとの太鼓判を戴きました。勿論この先生に巡り合うまでには、大勢の方のご縁が重なって、ご紹介戴けたのですが、その詳細は省略します。唯先生も署名と花押については、確実と言われたものの、裏書全部については、不明との事、表具をし直せば多分判明するだろうとの事、京都・本山の加納雲錦堂を紹介して戴き、この程修復を終え、見違える程に仕上がって帰ってまいりました。現代の修復の技術の素晴らしさに、感嘆した次第です。
その結果、軸の裏書により、「加賀の国・江沼郡・額田庄・神宿村・林松寺住職・釈道祐が、文明15年6月28日(1483)、蓮如上人から賜ったものであることが判明しました。
蓮如上人が比叡山の衆徒の迫害を受け、北陸に逃れ布教活動中に、道祐は蓮如に深く帰依し、寛正6年(1465)真言宗から、真宗に転宗されたのです。従ってこの軸は、蓮如に師事してから約20年後に賜ったことになります。この寺はその後天正年間に(1573〜1592)一旦廃絶し、その後、野条受閑氏が再興し、教如上人の推薦で、円乗(明泉寺開基)が委せられた寺です。教如から円乗がこの軸を賜ったのは、慶長8年(1603)〜慶長19年(1614)の筈です。裏書の中に判明できなかった字が4字あり、その解明にも、一苦労あったのですが省略します。市の文化財に申請する事も勧められましたが、デメリットを考え、当分は、当山で大切に保管したいと考えています。私としては、残していた大仕事を終えた心境で、自己満足している次第です。報恩講の折、皆様に披露したしますから、関心のある方はどうぞご覧下さい。
<方便法身尊形・ご絵像はこちらでご覧いただけます>
奈良間 謙
今回の、東日本大震災を思うと、どういう心持ちで御遠忌にお詣りすれば良いのか少しためらいもありました。
東本願寺に着き、逮夜の勤行に参加しました。たくさんの方が見えられて、念仏、正信偈を一緒に読経しました。自分が皆様とお唱えできた事に本当に感激しました。
昨年九月から明泉寺様の永代経法要、報恩講、そして修正会と続いて参加し、瞳を閉じた時、涙が流れそうになりました。懸命に行事に参加している皆様のお姿に接して僕はたくさんの事を教えていただきました。
比叡山延暦寺は雨が降っていましたが、僧の方に案内していただき、修業の大変さを考えさせられました。阿弥陀堂で「念仏三昧」について聞くと、本当に僕も念仏を唱え、体が暖まる気がいたしました。
今回の旅は、親鸞聖人との出会いと蓮如上人の足跡を辿るもので、訪ねた吉崎御坊は五木寛之さんの蓮如上人の本に出ていたので、とても懐かしく思いました。命を追われながらも御文の完成と信仰を広めていった蓮如上人と信者の方達の事を深く偲びました。 高村光雲製作の蓮如像を拝した時には、今も生きているような蓮如の姿に改めて感激しました。
明泉寺様でも御文を水谷先生が読まれますが、現在に生きる僕達が、ずっと御文を読み続けられるという事は、私達が阿弥陀仏様の救いを、教えられる尊いものだと感じました。
僕はいろいろな方々に対して「どうしたら今日一日を大切に生きていけるのか」をよく尋ねます。真面目に生きることが、大切であると聞きます。旅行から帰ってきた今、「どのように生きていけば良いのか」は、まだ考え尽していませんが、たくさんの方々と共に聞法して生きて生きたいと思っています。
被災された方々を思うと「今、僕に出来ることは何か」といつも考えています。毎日日々を僕はとにかく精一杯生きようと思います。
―垣間見た宗祖親鸞聖人―
去る2011(平成23)5月20日(金)、21日(土)、宗祖親鸞聖人750回御遠忌団体参拝に参加させて頂きました。
2011(平成23)年20日午前7時30分、JR静岡駅南口を静鉄観光バスで出発、一路京都本願寺へ。「御遠忌逮夜法要」は午後2時から東本願寺御影堂で勤められました。快晴の東本願寺到着後、境内で記念写真撮影。その後、改修中の阿弥陀堂から入り御影堂へと進みました。
御影堂に入りまず驚いたのは、堂内の広さと、法要に参加する門徒の多さでした。全国各教区から参拝に訪れた2千人以上はいるであろう人達が整然と椅子に座っていました。私達34組(約80名)も当然の様にその中に吸い込まれました。
午後2時、真言宗歌の唱和から始まり門首あいさつ等の後、僧侶100名ほどが入堂、同朋唱和勤行集の唱和に入りました。「宗祖親鸞聖人御真影」を囲んでの、僧侶の声が聞こえない位広い堂内に親鸞聖人を偲び、同朋唱和を唱える門徒の声が響き渡りました。
法要も終わりほっとした堂内に悲しい報告がありました。東北地方大震災の被害です。東北地方に点在する各教区928カ寺中、350カ寺の寺院、寺族、門徒等が被災しました。本山災害救護本部では、全国の教区、寺族、門徒に呼びかけ、懸命の活動を行っており、今日参拝した我々にも協力を呼びかけられました。被災された方々に心からお見舞い申し上げます。
法要終了後、参拝者は順次、中央「宗祖親鸞聖人御真影」の前へ行き、身近かで見る「御真影」に手を合わせ「南無阿弥陀仏」。午後4時45分、東本願寺をあとに箕面観光ホテルへ(1泊)。
法要参拝の緊張のとれた2日目は京都市美術館で「親鸞展」を観賞後、青蓮院・法界寺・日野誕生院を参拝しました。
特に印象に残ったのは法界寺の阿弥陀堂でした。約800年以上も前に建立されましたが、今も当時のままの姿で現存している事です。阿弥陀堂建築に施された種々の技法にも驚かされましたが、それ以上に堂内中央で蓮華座に座る「阿弥陀如来」の円満豊麗な優しさ溢れる姿を拝した時には、見も心も癒され思わず手を合わせる事が出来ました。そして親鸞聖人が幼少の頃、この阿弥陀如来の回りで無邪気に遊んだそうで、その姿を垣間見る事が出来ました。この地で父に手を引かれ、母に抱かれ愛情一杯に育てられた9年間の幼少時代に培われた「他人を思いやる」心がその後の厳しい修業にも耐え忍ばれたのではないでしょうか。奇しくも法界寺を訪れた日は、親鸞聖人の御誕生日、承安3年4月1日(陽暦5月21日)で感慨深い気がしました。
親鸞聖人といえば厳しい修業、宗教の教え等、近寄り難い思いがありましたが、その思いは法界寺参拝後には、「無」になり、緊張した肩の力がとれました。
寺院参拝の折にふれ、バスガイドの説明、解説等が爽快且つ的確で実りの多い2日間でした。
最後になりましたが、この企画をして下さった団体参拝委員会スタッフの皆様に厚く御礼申し上げます。
2011(平成23)年5月31日
高野 勇
高野 淑恵