明泉寺の歴史
真宗大谷派 圓乗山 明泉寺は、教如上人に師事していた円乗法師によって慶弔7年(1602年)に開創され、静岡市の街中で悠久の歴史を刻んでいる由緒あるお寺です。伏見に明泉寺を建て、10年後に駿府(現住地)に移りました。
明泉寺の開基・円乗法師は、正保4年9月6日(1647年)入寂されました。
現在も教如上人が円乗法師に授けてくださった数々の宝物が明泉寺で大事に保管されております。
駿河蒔絵
蒔絵とは、漆で模様を描き、乾かないうちに金や銀、錫などの金属粉や色粉を蒔いて表面に付着させる、漆工芸の加飾技法の一つ。駿河蒔絵は、研出蒔絵や消粉蒔絵を中心に、変り塗りの手法と斬新なデザインが特徴です。そのルーツが明泉寺にありました。
明泉寺6世住職 了易の末子「亀蔵」は文化元年(1804年)に「中川五郎右衛門(中川亀蔵)」と名を改め、中川家を継ぎました。五郎右衛門が旅行中、信州の画人・天嶺と知り合います。文政11年(1828年)頃に五郎右衛門家を訪れた天嶺は、長男の文蔵に絵を(後に画家に)、次男の専蔵には蒔絵の技術を教えました。この出会いが駿河蒔絵の起源と言われています。その後、天保元年(1830年)に江戸蒔絵師が専蔵家に滞在し、多くの職人に技術が伝授され、更に発展・継承されていき、今日に至ります。
明泉寺6世住職 了易の末子「亀蔵」は文化元年(1804年)に「中川五郎右衛門(中川亀蔵)」と名を改め、中川家を継ぎました。五郎右衛門が旅行中、信州の画人・天嶺と知り合います。文政11年(1828年)頃に五郎右衛門家を訪れた天嶺は、長男の文蔵に絵を(後に画家に)、次男の専蔵には蒔絵の技術を教えました。この出会いが駿河蒔絵の起源と言われています。その後、天保元年(1830年)に江戸蒔絵師が専蔵家に滞在し、多くの職人に技術が伝授され、更に発展・継承されていき、今日に至ります。
名水
竹茗堂・6代目当主・西村重吉氏は、代々の茶道の優れた当主の中でも、特に茶の湯に適した水について、研究された方として、知られてます。その重吉氏の選んだ、駿府の名水五選の中に明泉寺の井戸が入っていました。竹茗堂の若奥様・西村三千代様が会員というご縁で櫻楓会(日本女子大の同窓会)の集まりの折、重吉氏をお招きして、お茶の四方山に就いて、蘊蓄を傾けたお話しを伺ったことがあります。多分、昭和30年代だったと思います。お話が進んでお茶は水次第と言われ、その名水の一つとして明泉寺の井戸を挙げられました。私はとても驚き、あとでいろいろ伺ったところ、その位置は、今までのバケツ置き場・現在、掃除用具の納屋にしている辺りのようでした。水脈について、その道の達人に伺ったうえで、新たに井戸を掘りました。位置は少し変わりましたが、水脈は続いていると思います。現在の墓参用の流しに出る水は、その名水の筈であります。但し井戸水ですから、そのまま飲むことは衛生的に不安です。美味しい水が、衛生的な水とは限りませんから。宜しければ、お持ち帰りになって、煮沸してからお茶をいれてみてください。
蘇鉄
この蘇鉄は天保年間に植えたもの。戦災で焼失してしまいましたが、2年後に芽を出し、ここまで成長しました。
明泉寺を入った右側に、蘇鉄が植えてあります。この蘇鉄は慶応生まれの祖父・了故(11世住職)よりも30年程、古い木であると、了故から聞いていました。昭和初期の県史に樹齢100年と載っていたことは、父・寿(12世住職)から聞いてます。戦災の却火で、明泉寺の樹木が、総て焼き尽くされた中で、2年後に辛うじて、この蘇鉄だけが芽を出したのです。昭和22年7月には、葉はただ2枚のみ。その芽吹きに気付いた時の感激は、今も忘れられません。戦後50年かって今の状態までに成長したのです。戦前の蘇鉄は本堂向かって左側、中央の敷石と隣家の塀との中間辺りにありました。高さは向拝(ごはい・本堂の正面階段に張り出した廂の部分)に届くほどに伸びていました。この蘇鉄の裏側の人目に付かぬところに、祖母はお墓の花殻を乾し、母はそれで風呂を沸かしていました。思えば気の遠くなるような、慎ましい生活でした。晃叔父に招集礼状が来た時に、この蘇鉄を背景に撮った写真があります。セピア色のその懐かしい家族10人の中で、今も健在なのは、わずか2人だけになってしまいました。「光陰、矢の如し」でありました。蘇鉄との付き合いが長いだけに思い出も限りありません。今の位置に移植した頃は、前住も若く健康でした。本堂建築のために、汗と泥にまみれながら、満足そうだった夫の笑顔が浮かびます。現在もそのままにしてあり、辺りの雑草を抜きながら、私は過ぎし日々を、懐かしく思い起こしていました。
工事中の去年は蘇鉄の芽吹かざればもしやと憂れひし一年なりき
二年分の勢ひを見せてこの年の蘇鉄は葉数一きわ増せり
早蕨に似たる巻葉の瑞々と蘇鉄の新芽梅雨を浴びゐる蘇鉄の新芽梅雨を浴びゐる
明泉寺を入った右側に、蘇鉄が植えてあります。この蘇鉄は慶応生まれの祖父・了故(11世住職)よりも30年程、古い木であると、了故から聞いていました。昭和初期の県史に樹齢100年と載っていたことは、父・寿(12世住職)から聞いてます。戦災の却火で、明泉寺の樹木が、総て焼き尽くされた中で、2年後に辛うじて、この蘇鉄だけが芽を出したのです。昭和22年7月には、葉はただ2枚のみ。その芽吹きに気付いた時の感激は、今も忘れられません。戦後50年かって今の状態までに成長したのです。戦前の蘇鉄は本堂向かって左側、中央の敷石と隣家の塀との中間辺りにありました。高さは向拝(ごはい・本堂の正面階段に張り出した廂の部分)に届くほどに伸びていました。この蘇鉄の裏側の人目に付かぬところに、祖母はお墓の花殻を乾し、母はそれで風呂を沸かしていました。思えば気の遠くなるような、慎ましい生活でした。晃叔父に招集礼状が来た時に、この蘇鉄を背景に撮った写真があります。セピア色のその懐かしい家族10人の中で、今も健在なのは、わずか2人だけになってしまいました。「光陰、矢の如し」でありました。蘇鉄との付き合いが長いだけに思い出も限りありません。今の位置に移植した頃は、前住も若く健康でした。本堂建築のために、汗と泥にまみれながら、満足そうだった夫の笑顔が浮かびます。現在もそのままにしてあり、辺りの雑草を抜きながら、私は過ぎし日々を、懐かしく思い起こしていました。
工事中の去年は蘇鉄の芽吹かざればもしやと憂れひし一年なりき
二年分の勢ひを見せてこの年の蘇鉄は葉数一きわ増せり
早蕨に似たる巻葉の瑞々と蘇鉄の新芽梅雨を浴びゐる蘇鉄の新芽梅雨を浴びゐる
伊部勘右エ門のお墓
(二丁町・遊郭の創始者)
(二丁町・遊郭の創始者)
徳川家康の命を受けて、二丁町(安倍川町の俗称)に、初めて遊郭を開いたといわれる、伊部勘右衛門の墓。
勘右衛門は山城伏見の方で、家康の家来、鷹匠を勤めていました。家康とともに、駿府へ移住し、後、老齢のため辞職を願った折、家康から永年の忠勤を讃え、安倍川町の土地を与えられ、遊郭を作り、その支配を任せられたのでした。これが、昭和初期まであった二丁町遊郭の始まりなのです。勘右衛門は、正保4年(1647)2月に病死しました。墓は加右衛門が建てたもので、中央に桔梗の家紋が彫られ、右に釋祐念(勘右衛門)左に釋妙久(妻)の法名が彫られています。明泉寺創立の時からの壇徒で、今に続いております。
中村春二と一族のお墓
当山墓地にある成蹊大学創立者・中村春二と、その父 国文学者・中村秋香はじめ一族の文久以来のお墓です。
明治〜大正期の教育者である中村春二が三菱財閥総帥の岩崎小弥太、今村銀行頭取の今村繁三らの協力を得て創設した私塾「成蹊園」が母体となっていて、第二次世界大戦前には三菱財閥と非常に縁の深い学園でした。
現在でも理事長以下、理事に三菱グループ各社の役員が名を連ねていて、三菱グループが大学の経営に深く関わっています。
「成蹊」の名は司馬遷が史記(李将軍列伝)で引用した諺「桃李不言下自成蹊」に由来しています。
明治〜大正期の教育者である中村春二が三菱財閥総帥の岩崎小弥太、今村銀行頭取の今村繁三らの協力を得て創設した私塾「成蹊園」が母体となっていて、第二次世界大戦前には三菱財閥と非常に縁の深い学園でした。
現在でも理事長以下、理事に三菱グループ各社の役員が名を連ねていて、三菱グループが大学の経営に深く関わっています。
「成蹊」の名は司馬遷が史記(李将軍列伝)で引用した諺「桃李不言下自成蹊」に由来しています。
宝物
方便法身ご絵像
裏に蓮如上人の花押がある教如上人から拝授された方便法身ご絵像です。
文明15年(1473)のものだから、円乗が教如上人
から明泉寺を建てたころに授かったものと考えられます。
裏に蓮如上人の花押がある教如上人から拝授された方便法身ご絵像です。
文明15年(1473)のものだから、円乗が教如上人
から明泉寺を建てたころに授かったものと考えられます。
親鸞聖人のご絵像
元和4年(1618)に授かりました。
明泉寺の宗祖。親鸞聖人は、法然上人を師と仰いでから生涯に渡り、「真の宗教である浄土宗の教え」を継承し、さらに高めて行く事に力を注ぎました。自らが開宗する意志は無かったと考えられます。独自の寺院を持つ事はせずに、各地につつましい念仏道場を設けて教化する形でありました。
元和4年(1618)に授かりました。
明泉寺の宗祖。親鸞聖人は、法然上人を師と仰いでから生涯に渡り、「真の宗教である浄土宗の教え」を継承し、さらに高めて行く事に力を注ぎました。自らが開宗する意志は無かったと考えられます。独自の寺院を持つ事はせずに、各地につつましい念仏道場を設けて教化する形でありました。
教如上人のご絵像
元和4年(1618)に授かりました。
教如上人は、安土桃山時代から江戸時代にかけての浄土真宗の僧です。
元和4年(1618)に授かりました。
教如上人は、安土桃山時代から江戸時代にかけての浄土真宗の僧です。
七高僧のご絵像
元和7年(1621)に授かりました。
親鸞聖人は大きな影響を受けた七高僧を大切にされました。その名は「龍樹菩薩」「天親菩薩」「曇鸞大師」「道綽禅師」「善導大師」「源信僧都」「源空上人」です。
このうち、大きな影響を受けた天親菩薩と曇鸞大使のお二人から一字ずつとって「親鸞」を法名としました。
元和7年(1621)に授かりました。
親鸞聖人は大きな影響を受けた七高僧を大切にされました。その名は「龍樹菩薩」「天親菩薩」「曇鸞大師」「道綽禅師」「善導大師」「源信僧都」「源空上人」です。
このうち、大きな影響を受けた天親菩薩と曇鸞大使のお二人から一字ずつとって「親鸞」を法名としました。
聖徳太子のご絵像
元和7年(1621)に授かりました。
親鸞聖人は、聖徳太子のことを「和国の教主」とおっしゃ
られ大変尊敬しておりました。比叡山で山篭りをしたとき
に聖徳太子から「磯長の夢告」を受けたのです。
元和7年(1621)に授かりました。
親鸞聖人は、聖徳太子のことを「和国の教主」とおっしゃ
られ大変尊敬しておりました。比叡山で山篭りをしたとき
に聖徳太子から「磯長の夢告」を受けたのです。